飛丸が森の方へ駆け出して行ったのを追いかけていくうちに、仔太郎は自分の上に真っ黒な雲が浮かんでいることに気がついた。
「あ…」
押しつぶされそうだと思えるほど地面に近い。今日は特に冷え込みがひどかったから、きっと雪が降るに違いない。だが、それでも仔太郎は戻る訳にはいかなかった。
気がつけば、完全に飛丸を見失っている。森の中で一人取り残されてしまった。小屋からどのくらい離れているのかも、よくわからない。
仔太郎は近くの大木に寄り添うように腰掛け、飛丸が自分を捜しにきてくれるのを待つことにした。こんなときは、むやみに動き回らない方がいい。それに、自分が飛丸を探すよりよほど、飛丸が仔太郎を見つけ出す方が早いに決まっている。
「…」
自分で自分の体を抱きしめてみる。…暖かかった。

少しだけ、あいつの気持ちがわかった気がする。



冷え込みが酷くなってきた。小屋から出てみると、真っ黒な雲が空を覆っている。この調子だと、今夜は雪だ。
こんなに寒くては、仔太郎も小屋に入ってくるだろうと思って、外を見回してみる…が、いない。さっきまではすぐそこにいたと思ったのだが。
「仔太郎ー?」
呼んでみるものの、返事は無い。まさか、こんな寒い中、森の中に行ったのか?飛丸が一緒だとは思うが、やはり心配だった。…と、その時。
向かいの茂みが、ガサガサと揺れている。注意深く観察していると、ぴょこん、とよく知っている顔が出てきた。
「と…飛丸?」
その場にしゃがむと、飛丸が嬉しそうに尻尾を揺らしながら飛び込んできた。頭を撫でてやりながら、
「お前、ご主人様はどうした」と聞く。飛丸はクウ、と首を傾げた。
「一緒じゃないのか」
「わふっ」
尻尾を一振り、大きく揺らす。そしてくるり、と元来た方向に向き直ると、たったっ、と走り出してしまった。
「お…、おい!」
慌てて後を追うと、ついてこいと言っているかのように立ち止まり、こっちを見ている。何なんだ、と訳も分からぬまま、その小さな後ろ姿を追った。



…ついに、雪が降り始めた。手を前に差し出してみると、小さな自分の手の上に白い綿雪がふわりと落ちた。
はーっ、と両手に息を吹きかけて、軽く擦り合わせる。空からは絶えず、綿雪が降り注いでいた。
「…」
じっと座っていると、何だか瞼が重い。
「…静か、だな」
何の音も聞こえない。こんなに静かなのは、本当に久し振りな気がする。目を閉じていると、真っ暗な中にぼんやりと映像が映った。

子供が一人、家の中でぼーっとしている。足下には、布団の中で眠っている男がいた。安らかな顔をして、ぴくりとも動かない。
子供は、大きな目を赤く腫らしていた。泣き疲れたのだろうか、泣き過ぎて涙も涸らしてしまったのだろうか。ぼーっと、ぼーっとしている。
…静かだった。何の音も無い。
頭の中で、今自分の足下で眠っている男の笑顔が浮かんだ。にやりとした、悪戯っぽい顔。
大好きだった。大好きだった。いつかきっと、この人みたいになるんだと思った。
そう思っていると、また目に熱いものが溜まる。

ふと、頭の中の男が、違う男の顔になる。何か言っているが、よく聞こえない。…ただ、その笑顔は、とても優しかった。
「…、」
なんて言ってるんだろう。いや、そんなことより、何でこんなに嬉しそうなんだろう。男は本当に嬉しそうに笑う。幸せそうに目を細めて、子供の頭を撫でている。
それから、次々に場面が切り替わる。最初の方は見るのも辛いような映像だった。一人ぼっちになってしまった子供、ただ一つの「家族」と、どうすることもできないまま道に座り込む日々。すぐに人売りに見つかり、目を付けられた。
声はよく聞こえない。

イヌハ…ニシテ、ガキノホウハ…デモイイナ、カオツキハ…ガ、カイテ…クラデモ…イル、

通り過ぎていく人達の、様々な表情。
憐み、同情、好奇の目。
そんな中、たった一人、子供を助けてくれた人がいた。その国の人間ではないらしい。その人に連れられて、大きな海を渡る。
辿り着いた先で、少しだけ、…ほんの少しだけ、得た安らかな日々。僧侶だったその人からこの国の文字を習ったりもした。元から物覚えはいい方だった。
そんな日々も、すぐに終わる。何故かも分からないまま、襲われて。何なのか分からないまま、助けてくれた人と別れた。
また、一人になった。生きるために、人ではない「相棒」と、色々な事をした。物を盗むなんて朝飯前だ。「相棒」がいれば、の話だが。

そして。




初めて会った時の事を思い出して、思わず笑みが零れる。あの時はいつ来るかとも知れない追手に神経質になって、急に現れた男が信じられなくて、端から食ってかかった。呆れたような、憐れむような顔が浮かぶ。
そんな顔をして、自分が気を許した瞬間に捕まえるに違いない。そしてどこかに売り飛ばすなり、殺すなりするに決まっている。弱気になったらおしまいだ。相手は刀を持っている。抜かれたら、…おしまいだ。
だが。
…男はいつになっても刀を抜かないし、別に捕まえようともしない。どこか飄々とした感じ。そんな感じが、自分のよく知っている人に似ている気がして、思わず頭を振って馬鹿げた考えを振り落とした。
大事な「相棒」が怪我をした時、必死に縋り付いた。本当は頼りたくなかった。けれど、自分ではどうしようもなかった。男は呆れたような顔を浮かべながら、それでも見捨てなかった。何だかんだ言って、助けてくれた。

そう。
その後もずっと、男は何もしなかった。自分の事に、深く関わってはこない。それが「関わってこない」のではなく、「関わらない」ようにしていたと気付いたのは、あの夜だ。 温泉に入って、ふと男を見てみると、…男の体には無数の傷跡があった。
そして。…そう、そして。
男の体に、点々と黒いものが落ちてくる。最初は何だろうと思った。それが―

男も、誰かに深く関わる事を避けていた。
知られたくない秘密があった。
わざと虚勢を張って、そんな姿が自分と重なった。―初めて、肩の力が抜けた気がする。



男と別れた後、追手に捕まった。今度こそもう駄目だ。追手の一人が言う。
「ただ一人、追ってきた奴がいたそうだ」と。
信じられなかった。あいつの筈がない。
(何で―何で、追ってきた?何で、そんなに必死になって、走ってるんだ?何で―)

そうだ。何であの時、あいつは走っていたんだろう。
何で、斬りつけられて、血を流して、何人も人を斬って、―自分の所に来たんだろう。今でこそあんな風に一緒に行動しているが、あの時は違った筈だ。何の理由もなかった。なのに、何で?死ぬかもしれないのに―

『…ろう、』

…何で、

「…たろう!仔太郎っ!!」




ぼやけた視界に、男の顔が映っている。男ははっとして、それから肩の力が抜けたように、泣いているような笑っているような、何とも言えない顔になった。
「仔太郎…」
「…な、な…し?」
小さな体は、雪で埋もれかかっていた。男はそれを払い落して、「よかった」と呟く。そして、冷え切った小さな体を、自分の体に押し当てるようにして抱きしめた。
「よかった…仔太郎…」
「…、」
男の顔は見えないが、声が少し震えていた。暖かい。それが本当に、これ以上ないくらい暖かくて、幸せな気持ちになった。温もりを求めるように、両腕を男の背中に回す。男は驚いたようだったが、すぐに優しい笑みを浮かべた。
「…帰ろう、仔太郎」
そう言われて、頷く。男から離れて、歩こうとしたが―できなかった。体がふわりと浮いて、それが抱え上げられたと気付く間に、男はスタスタと歩き始める。
「…名無し、」
「んー?」
いつも通りの口調だった。降ろしてくれ、歩けるから。…そう言おうとして、やめる。男はただ嬉しそうにしているだけだ。何でこんな所にいたのかとか、そんな風に聞く事は沢山ある筈なのに、聞かない。静かな世界で、ただ、男が雪を踏みしめる音だけが聞こえる。
「…どうして、」
ここが分かったんだ。そう続けようとした口が動かない。男はああ、と笑う。二人の下で、「わふっ」という何とも誇らしげな声が聞こえた。
「飛丸が急に走り出すから、必死について来たんだ。そしたらここに」
「…ああ、」
きっと飛丸が、男を連れて来たのだ。後からうんと誉めてやろう、そう思って目を閉じる。
「名無し、」
再び目を開けて、男の顔を見ながら、不思議に思っていたことを切り出してみた。
「あの時、…何で、…何で、助けに来たんだ?」
「ん?」
男はきょとん、としている。それから暫く考えるようにして、「ああ」と笑った。
「獅子音の、」
「…何でだ?」
「…何で、って言われてもな…」
苦笑している。小さな頭に積もった雪を、丁寧に払い落す。
「あの時、…もう、取引は終わってた。例え情が移ってたとしても、…あれじゃあ、命を捨てに行ったも同然だ」
「あー…」
よく分からないな、と濁す。そんな筈はない、と睨んでも、「分からないものは分からない」と返された。
「…無鉄砲もいいとこだ」
「ははは、」
男は空を見上げる。雲は相変わらず、二人の上を覆っていた。…明日まで、吹雪くかもしれない。
「…じゃあ」
男は急に真面目な顔をして、…それでもどこか悪戯っぽい顔をして、切り出した。今度は、自分が首を傾げる番だ。
「最近、俺を避けてただろ?あれの理由を教えてくれたら、俺も教える」
「な…」
男は「どうする?」と言って、ニヤニヤしている。自分の顔が真っ赤になっていることは、容易く想像できた。
「…分からない」
「分からない筈ないだろ?」
さっき自分が言ったことを、今度は男から言われて、困惑する。分からないものは分からない。だから、答えようがない。
「自分でも分からないんだから、仕方ないだろ」
「じゃあ、俺も分からない」
「何だよ、それ」
男は飄々としている。クスリ、と笑いがこみ上げて、男の肩に頭を預けた。
「…なら、いい」
「そうか」
笑ってそう答えた男は、愛おしそうに―本当に愛おしそうに、その小さな頭を撫でた。
「なら、俺もいい」
分からないでもいい。―傍にいてくれるなら、それでいい。
そう言って幸せそうに笑っている男を見ていると、体が熱くなって、ボーっとしてきた。でも、それでもいいか、と思い、目を閉じる。
…静かだった。どちらのものともつかない、「どくん、どくん」という音が心地よかった。




二人のすぐ後ろ、ちょっとだけ距離を置いてついて来ていた犬のフサフサした尻尾が、満足気に揺れている。
サクサクと雪を踏みしめる音が響く中で、「わふっ」という誇らしげな声が、微かに聞こえた。